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イギリス料理 まずい コピペラスト タイクーン フィッツジェラルド

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Publicado el 13/12/2020

またリーグが再開してから出ずっぱりのマグワイアが左CBに入るのならばここのサイドを狙っていきたいですね。, 祖父の葬式を終えてバブルへ向かうルー・ウィリアムズ。 同じ知的障害なのに、ここまで言語能力・意思伝達能力に差があるとは思ってもみなくて、大きなショックを受けた。うちの妹も、ここまで話すことが出来たなら。そう思わずにはいられなかった。。, ウィリアムズが片目見えてなかった説が本当だとすると、プレーが酷かったのと合点がいくので恐ろしい話である。, 劇場公開時以来の「ブルーバレンタイン」、冒頭の食事のシーン(夫は子供と食べ物で遊び、妻はそれを嫌がる)が印象深かったが、婚姻前の食事のシーン、ミシェル・ウィリアムズとその母はパスタをフォークでぐるぐるして食べ、祖母・父・ゴズリングはフォークでむしゃむしゃ食べる…のに目が向いた。, まず、ザソプラノズのジャニスの人が、ちらっと出てて、なんでって思ったら、なんとこのダブル主役のひとり、弁護士役の人が、いとこらしい。 ウィリアムズ:くっ、他にもいたか…!, 復活なるか2歳王者17番アルフレード 516[-2] C.ウィリアムズ 57     2012NHKマイルカップ, コントラファゴットが用いられる管弦楽曲 / Contrabassoon Repertoire, John Williams: Star Wars: The Phantom Menace, Suite サイモン・ペッグはエドガーライト監督作品に良く出演してるイメージが強いよね(´ω`) 割れ厨のコピペは何度見ても傑作だな 41 : すずめちゃん(東京都) :2009/02/23(月) 20:07:15.52 ID:LX1CWwy8 初期装備が最後まで変更できないマジコン対策とかしてほしい 日本最大級の小説投稿サイト「小説家になろう」。作品数40万以上、登録者数80万人以上、小説閲覧数月間11億pv以上。パソコン・スマートフォン・フィーチャーフォンのどれでも使えて完全無料! 方向性としては、三谷幸喜監督作品とか、ロビン・ウィリアムズ主演のちょっと泣けるドラマとか、ジャック・ブラックがヒーハーしてるちょいアクションとか, 「いまを生きる」(1989)の名言 LSBに関してはウィリアムズでは う、左サイドバックウィリアムズか...ユナイテッドの穴として見做されてるから怖いな〜バーディそこの裏はやめてね, ルークショー間に合わんかったか、、、ウィリアムズ前節みたいなことは頼むからせんでくれ, マンuの左SBウィリアムズは守備が特に穴だから右サイド、グレイで切り裂いて欲しかったんだけどな ウィリアムズ ジョン・ウィリアムズ: 組曲 《スター・ウォーズ: 幽かなる脅威》 July 27 ロメロ — 3 bassoons (3rd doubling contrabassoon), ユナイテッドは前節もあまり良くなかった左SBにB・ウィリアムズが入っています。 バイリー ウィリアムズファイト!, 先日、ウィリアムズ症候群の子に会う機会があった。 フォスメンサー 「人々が君にどんなことを言おうと、言葉とアイデアで世界は変えられるんだ。」, ダニー・好きなんか通り越して当たり前に愛してる・ウィリアムズ:「長年夫婦やってりゃおまえがロクなこと考えてないのはわかる」(公式). タイクーン王がファンキー過ぎる、「風の様子が変」言うけど、風よりも王のが変だ 【【ios版】ff5アプリ攻略① ゲーム攻略ブログ】の続きを読む ところで誰か、ラストタイクーン読んだことある人いませんか? 117 :吾輩は名無しである:02/04/07 11:31 俺、ラストタイクーン読んだよ。 角川からムカーシ文庫で出てたよ。 完成してたら、傑作になってただろうなぁ。 日本ダービー(2014), クラヴィス「なあウィリアムズ、ぼくら、少し距離を置こう」 レスターのプレッシングがハマってる印象。特にマティッチの足元がおぼつかない様子でそこを狙えてる。でもイヘアナチョが判断悪くて良いフィニッシュの形には持っていけてない。ジャスティンは思いきってオルブライトンと絡みながら攻めてほしい やはりショー以外のフルメンで来ましたね!ウィリアムズ片目見えてない説あったけど元フィールドプレーヤーのスールシャールはそんな選手だったら出すはずもないので考えないことにしてます。 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2018年11月29日 13:10:09: b5JdkWvGxs: DbsSfawrpEw[-21343] . 映画「15時17分、パリ行」は 年に起こった「タリス銃乱射事件」を映画化した作品です。 主演に、実際に列車でテロリストを取り押さえた3名のアメリカ人本人を起用した、他に 類のない映画となっていま … イギリス王ジョージ3世にアメリカ独立戦争に投入するためのヘッセン=カッセル傭兵軍を貸し出したことで有名である。 このためアメリカ人はイギリス政府に雇われたドイツ人傭兵たちを「ヘシアン」 (Hessian) と呼ぶようになった。 リーランド「(切り裂いて…)」, 「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」(1997)の名セリフ ウィリアムズ「(君の手で…)」 ちゃんと練れてる訳じゃないけどリュカガルニエは少なくともブラッドウィリアムズより見ててイラッとする男。私がそう思ってるからそう???? 6 レスバ途中ワイ彡(゚)(゚) (アカン、よう考えたらワイの言ってることの方がおかしいわ・・・)|パソコン、ゲーム、アニメ、マンガの話題からビジネス、投資、雑談まで、2ch・にちゃんねる(5ch・ごちゃんねる)の話題をまとめました。 ジョン・ウィリアムズ: 組曲 《ハリ・ポッタと秘密の部屋》 >, 金井美恵子『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』を読了。金井さんのエッセイ集。いろいろな雑誌などに発表したエッセイを寄せ集めたもので、金井さんのファン以外が読んでも全然面白くないのではないかと云う気がする。金井さんと云う人は、反省をすると云うことをおそらくは殆どしない人で、自分の主観を信じ切って居るタイプの人物だ。だからエッセイを書く際にも、客観的な視点に立って自分の直観の正しさを検討すると云うことを殆どして居ないように見える。とにかく自分が感じること思ったことが正しいことであり、わざわざ検討する必要なんてないのだと構えて居るようだ。それはちょっと違うのではないかと云う文章に出くわすこともあるが、私は金井さんのセンスを相当に信頼して居るので、それなりに楽しんで読んだ。ただ、少し昔のエッセイ集であるから、背景にある時事のことが分からず読解に苦しむ箇所も多かった。金井さん的な長いセンテンスはほとんど見られないが、内容を読み取りにくい文が目立ったような気がする。人の悪口を書いたりする時には、わざと読みとりにくい文章で書くと云うのも文筆家の処世術の一つなのかもしれないと思ったりした。, 金井美恵子『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』を読了。非常に面白かった。本書を評するのには、「文庫版のためのあとがき」にある金井さんの自画自賛をそのまま引き写せば事足りそうな気がする。「ほぼ日常的な話題が、語り手の桃子たちの住む『目白』の紅梅荘周辺から外へ出ることも大してないままに語られるだけの構成の小説を、ここまで面白く書けるのは、まさしく作者の手腕であり、手腕というのは単に、小説上の一見、さり気なく駆使された技術や、抜きん出た言葉のセンスのことだけを言うのではなく、作者の世界観そのもののせいなのです、と、自分で書くと、ずうずうしい自惚れと思われてしまいそうですが、ずうずうしさついでに言えば、本当のことではないでしょうか。」本書もまた、いつもの金井作品同様長いセンテンスの文章で綴られているのだが、金井さんとしてはナチュラルな程度に抑えられているので、特に読みにくくはない。息の長い文を、読者を困惑させることなく、しかも不細工でない文章に仕立て上げるというのは、素晴らしい文章力だと言うしかない。読みながらなんでこんな文章を書けるのだろうと、感嘆の混じった驚きを覚えるわけだが、金井さん自身が上で言うようにそれは「抜きん出た言葉のセンス」というものなのだろう。金井さんは上で「作者の世界観」について触れているが、本作品の大きな魅力の一つは、まさにそれに触れることが出来るということだ。読んで楽しく、しかも作者のセンスに触れる快さを味わうことが出来る。この体験はもっと多くの人に共有されて然るべきだと思うのだが、この作者がマイナー作家の地位に甘んじているというのは残念なことだ。試しに今確認してみるとアマゾンではもはや本書の新品を購入できない状態になっている。文庫版の初版第1刷の発行は2002年だというのに。, 伊吹和子『われよりほかに 谷崎潤一郎最後の一二年』(上)(下)(講談社文芸文庫)を読了。谷崎晩年の12年を、秘書或いは編集者として間近で見てきた著者による谷崎晩年の記録。冷静な落ち着いた筆致で、谷崎の姿を客観的に描いているように思う。なかなか読み応えがあった。谷崎に興味を持っている人であれば興味深く読めるのではないか。普段着の谷崎がどのような人であったか、まったくイメージを持っていなかったのだが、なかなか嫌な人だったようだ。子供っぽい意地悪をしたり我が侭だったりと、伊吹氏はかなり苦労されたようだ。谷崎と云う作家は、我が侭な男、駄目な男、嫌な男などを描くのが巧いが、彼自身がそう云う素質を多分に持っていたからと云うのもあるのだろう。ただ、谷崎は彼が描く人物がそう云う駄目な男達であることをよく知りながら描いていた。彼らを主人公としながらも彼らを批判的に見る目をも確かに持っていた。ここに谷崎の作品の優れた所以の一つがあるわけだが、谷崎自身の駄目さ加減のこともまた谷崎は承知していたのだろう。承知しながら改めようとは思わなかったのか、或いは改めようとしても改めることが出来なかったのか、その辺のことは定かではない。優れた人格の持ち主は優れた作家にはなれないと云う。逆は、優れた作家の人格は皆卑しいと云うことになるが、谷崎にもそれは当てはまったようだ。谷崎ファンなら読んで損はしない本だ。, 谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスIX 浅草小説集』を読了。浅草を舞台にした小説2篇と浅草についてのエッセイ1篇を収める。本書の紙幅の大部分を占める小説「鮫人」は未完に終わっている。第一次世界大戦直後の浅草の様子を垣間見るのには役に立つが、所収の小説2篇は、小説としての面白みはあまりない。, またまた政治について書きたいと思う。時間を使って真剣に考えるのもなんか馬鹿らしいなと思うので、ラフな感じで書こうかと思う。要するに、政治の茶番化がますます甚だしくなったなと、腹立たしいというか、やれやれと云った気分になっているのだ。些細なことだが、小池防衛相が自衛隊の情報漏洩事件の責任をとって続投をしないことに決めたと発言したことは、政治の茶番化がここまで進んだのかとやれやれと云う気がした。情報漏洩事件発生当時は小池氏はまだ防衛相にはなっておらず、彼女が責任を取って続投しないというのは、まったく筋の通らない話だ。小池氏自身ももちろんそれは承知していることなのだが、それを承知していながらしれっとしてこんな行動を取るというのは、彼女は政治家の中では良識のある方だと思っていただけになおさら、政治の茶番化も来るところまで来てしまったのだなという思いを強めることになった。政治の茶番化がいつから始まったことなのかはよくは知らない。相当前から茶番だったのだと云うことは充分に想像されるわけだが、最近の茶番化の流れは私見では民主党の菅直人氏あたりから始まったのではないかと思っている。これは勿論かなり偏った考えだと云うことは承知しているのだが、私の感覚ではそう云うことになっている。一昔前に年金未払い問題で世が騒いだことがあった。小泉首相やら江角マキコさんやらが払っていないと云うので民主党がワイワイ騒いでいたと記憶する。江角さんは年金のコマーシャルに出演していたと云うのでこれは大問題だと云って、菅氏は江角氏を国会に喚問しようなんてことを言っていた。これも茶番の一つなのだが、その後菅氏自身も払っていなかったことが分かった。その時菅氏がどんな対応を取ったのかは記憶にないが、これは良識で判断して相当恥ずかしい振る舞いではないか。が、本人は何も恥とも思っていないらしく、その後民主党の党首選に出馬したり、いまだに民主党のトロイカ体制なるものの一翼を担ったりしている。この時の党首選は、前原氏が勝利したわけだが、敗北が決まった直後にはもうにこやかな顔をして前原氏の手を掲げ祝福し、党の運営の協力は私もしますから一緒に頑張って行きましょうみたいな態度を取っていたように記憶する。党首選に敗北したからと云って党運営の協力をしてはいけないと云うことはないのだが、この時の菅氏の態度を見ているとどうも違和感を覚えてしまったものだ。この党首選も茶番だった。蛇足だが、民主党についてここで一言しておくと、私はどうも民主党という政党が嫌いだ。特にトロイカ体制なんて云われているあの三人の幹部たちが党を牛耳っている限り、この政党にはご勘弁願いたいと云う気がしている。なまじ彼等が中途半端に若いだけに、この党は当分の間、二流、三流の政党であり続けるのだろうと思っている。若い議員も若い議員で、この現状に甘んじていると云うのはだらしがない。閑話休題。政治の茶番化と云えば忘れてならないのは、イラク戦争だ。まず日本の話から始めると、ブッシュ大統領が戦争を始めると言った時の、小泉首相のあの素早い反応は何だったのだろう。彼は即座に協力を表明した。イラク戦争自体が間違った戦争であったと云うことは間違いのないこととして、小泉氏が米国への協力を決めた決断が正しい決断だったのかどうかは、正直なところよく分からない。なんと云っても、日本は事実上米国の衛星国なのだから、色々と複雑な事情を勘案した上での決断だったのだろう。このことがあってから私は小泉氏に不信感を抱くようになったのだが、それは彼が充分に国民への説明責任を果たさなかったからだ。あるいは例の複雑な事情のせいで説明のしようがなかったのかもしれないのだが。とすると、悪の元凶はなんと云っても米国にあり、其処から様々な悪が派生してきたのだと云うことになる。これは恐らく相当正しいことなのだろう。米国については後に述べる。そして、あれよあれよと云う間にイラク戦争は始まってしまい、日本も相当に協力をして行くこととなった。そして小泉氏の決断の是非については、うやむやにされたまま今に至っている。これもまさに茶番ではないか。で、悪の元凶米国についてだが、今の世界で圧倒的な権力を握る国がこのような国であると云うことは人類の不幸だと云える。イラク戦争を始める名目は、イラクが大量破壊兵器を持っているからと云うことだったのだが、結局それは発見されず、米国もそれを認めることになった。その時米国は何らかの謝罪をしたのだろうか?また、イラク戦争中、誤爆が何度も発生した。全然関係の無い民間人を爆撃して多くの犠牲者を出した。間違いは誰でもすることとは云え、いやあ間違えましたと認めるだけでは、犠牲者側はたまったものではない。ここはやはりきちんと謝罪をして補償もきちんとするべきだろう。だが、私の知る限り、米国は其れをせずに、事はうやむやのままに終わっている。そんな米国が未だに我が物顔に世界を支配しており、各国も米国に追従している。これもまさに茶番だとしか言いようがない。結局世界を動かしているものが茶番劇の演出家である以上は、その役者たる日本の政治家たちも茶番を演じざるを得ないと云えるのかもしれない。が、それとは関係のない完全に内政の部分でも茶番を演じ続けていると云うのはどう云う訳なのか。そして先日の参院選があり、自民党が大敗したのにも関わらず安部首相は退陣をせずに、人心を一新するなどと言って内閣改造をすると云う。安部氏自身は退陣せずに人心を一新などとしれっと言うなんてこともまさに茶番だ。これも私見だが、今回自民党が大敗したのは有権者の多くが安部さんに首相を辞めてもらいたいと思っているからだ。選挙前から、自民党は選挙に負けても首相は退陣しないと宣言しており、それならよっぽど負けさせないと分からないのだなと云うわけで国民はこぞって自民党反対票を投じたと云うわけだ。与党過半数割れで退陣とでも宣言しておけば、有権者は程々のところで抑えたのではないだろうか。なにしろ相手はあの民主党であり、民主党に票を投じる積極的な理由はないわけなのだから、とりあえず自民党にショックを与えて我々の思いが通じればよしとしようと云うところだったのではないだろうか。自民党は選挙前にどんなに負けても首相の退陣はないと宣言したが故に、多くの票を失うことになってしまった。で、有権者はよっぽどのショックを自民党に与え選挙が終わったわけであるが、そのよっぽどのショックでさえも自民党に民意を伝える用を為さなかった。これにはほとほと呆れる。選挙後、塩崎、中川、森の三氏が協議し、この大敗では首相退陣はやむを得ないだろうと首相に進言したらしいが、首相はそれを聞き入れなかったと云う。私は塩崎氏も森氏も嫌いなのだが、この行動はやはり評価に値する(当然のこととは云え)。が、首相の続投の決意が固いと知るや「それじゃあ仕方ない」と諦めるというのは、どうしたことなのか。首相に反旗を翻して党の分裂を招くと云うことは避けたいと云うやむを得ない決断なのだろうか。安部首相のこの頑なさの後ろ盾には、自分には支援者が居ると云う強みがあるのだろう。その支援者の一人麻生氏と云うのも私の嫌いな政治家の一人だ。恐らく次期首相の座を狙って首相におべっかを使っているのだろうが、民意を無視して首相の続投を支援すると云うのは政治家としては相当恥ずかしい行動だと思う。一体この前の参院選は何のための選挙だったのだろうとやり切れない思いがする。今回私は投票に行ったのだが、投票して民意を訴えても政治家には通じないとなると、投票する意味がない。やはり選挙には行かなくても罪悪感を感じる必要なんてないのだと云う思いをあらたにした。これも私見だが、国民は何も自民党を下野させ民主党に政権を握って欲しいとは思っていない。あくまでも自民党に自覚を促し良い方向に変わって欲しいと思っているだけだ。が、具体的なショックを与えたのにも関わらず何の効き目もないとなると、国民にはあとどんな手が残されていると云うのか。次の選挙は衆院選になるわけだが、国民はこの選挙にどのような気持ちで臨むことになるのだろう。現状のままで行くと、自民党が政権の座を維持するか、或いは民主党に譲ることになるのかが大きなポイントとなる選挙になるが、国民側からすればどちらも気が進まないオプションである。いっそのこと「なんちゃって政党」でも誰かが旗揚げして、この政党が大勝すればよいのではないかという気にすらなる。今年のパ・リーグのオールスターみたいな感じで。勿論、本当に「なんちゃって」であれば国民には良いことは一つもないのだから、そこそこ期待できそうな人たちが集まった政党が出来ればよいなと思う。自民党や民主党から有志が集まるという形もよいし、田中康夫氏の新党日本がよい候補者を沢山集めて大量に立候補すると云うのも面白い。或いは、無所属の議員が大量に当選すると云うのもありか。いずれにしても、政治の茶番はもういい加減にしてもらいたい。一般の企業の場合社長が馬鹿だと社員が逃げていくわけだが、自民党内ではそのような動きは出てこないのだろうか。社長が馬鹿なのは社員の力ではどうしようもないことなのだから、そうと分かれば程良い頃合いに会社を辞めると云うのが利口な社会人と云うものだろう。政党の場合は受け皿がかなり限られているわけだから、退職の決断が簡単でないと云うのも分かるが、もうここまで来てしまった以上は、良識ある政治家であれば総裁退陣の声を挙げるなり離党するなりするしかないだろう。今はまさに、自民党議員の良識が問われている時ではないかと思う。さて、政治の茶番化の流れはどこまで続くのだろうか。, 谷崎潤一郎『台所太平記』(中公文庫)を読了。70歳を越えた老作家がこれまで抱えてきた女中の思い出を回想し物語ると云う形式のエンターテイメント作品。主人公一家は4、5人ほどの家族で、しかも主人公以外は皆女なのだが、それと同じくらいの数の女中を常に抱えている。大抵は今で云う高校生くらいの女をどこかから見つけてきて雇う。中には途中で辞めていったり辞めさせられたりする女中もいるが、多くは年頃になりお嫁に行くまで雇い続ける。お嫁に行くのは20代の半ばぐらいが平均的だが中には30過ぎになるまで10年以上も女中として勤めた後嫁に行く者もある。この主人公一家はお金持ちだと云うのもあるのだろうが、なかなか気前がよく、女中達をまるで家族のように扱っているようなところがある。少なくともこき使うと云うようなところは全くなく、のびのびとした生活を許している。10代から20代にかけての年頃の女と云う事もあり、なかなか気ままで自由奔放とした娘も多く、もちろん恋愛だってするわけだが、主人一家はそれを暖かく見守ってやっている。様々な性格をし、様々な奇癖を持った女中達が鮮やかに描き分けられている。色々面倒やら騒ぎやらを引き起こしたりする女中たちを見つめる、主人公の慈父のような温かいまなざしが好もしい。どちらかと云うと綺麗なところばかりを書いて醜いところは書いていないと云う感じの、軽いエンターテイメント調の作品であるが、肩肘を張らずに自然体で面白く書いているところはさすが谷崎だ。この作品を書いた当時谷崎は75歳であったが、75歳でこんな作品を書けるとは、谷崎と云う人はなかなか恵まれた晩年を送ったのではないかと想像される。看護婦と女中と云う違いはあるが太宰治の『パンドラの匣』と感じが似た爽やかな作品だ。, 谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスXIII 官能小説集』(中公文庫)を読了。官能小説と云うからどんなものかと思って居たら、ごくあっさりした谷崎風の恋愛小説だった。谷崎風であるからには、ごくあっさりしたとは云っても、一般的な基準から云えばあっさりなんてして居ないわけだけれども。筆は相変わらず安定して居るし面白いのだけれども、いずれも谷崎作品にしては物足りないと云った印象。, 参院選を振り返ろう。投開票前から自民党の惨敗が大方の予想だった。蓋を空けてみれば意外に自民党が健闘して居たと云う展開もあり得るかと少し期待して居たのだが、やはり当初の予想通りの結果に終わった。自民党が惨敗したのはまあよいとして、民主党が大勝すると云うのはいかがなものかと思うのだが、めぼしい政党がない以上、野党第一党に票が集まると云うのはやむを得ないだろう。自民党の惨敗の原因として、政治と金の問題、閣僚の失言、年金記録不備問題などが取り沙汰されて居るが、なんと云っても一番の原因は安部首相の首相としての資質の欠如にあるだろう。専門家が指摘して居るように、年金記録不備問題に関して与党に直接的な責任はないと云える。この問題に関して国民が自民党に不審を抱いたのは、記録不備問題の発覚そのものが原因なのではなく、発覚後の安部首相をはじめとした自民党の対処の仕方のまずさに原因の多くがあったのではないだろうか。あそこで自民党がきちんとした態度を取って居れば、ここまで惨敗することはなかっただろうし、或いは過半数の獲得さえあったかもしれない。このことは、政治と金の問題、閣僚の失言問題についても云える。あれだけの問題が発覚しても当事者を庇うと云うのは、つまるところ当事者に荷担して居るわけであり、自分も同類だよと宣言して居るようなものだ。或いは、自分は同類ではなくても、他が同類ばかりで代わりは居ないのだと云って居るようなものであり、これでは自民党という政党への不審を招いても仕方がない。安部首相は、惨敗後もまだ首相を続けるつもりで居るようだが、やはりここは潔く辞めるべきなのではないだろうか。代わりが居ないと云われて居るが、安部さんの代わりが居ないと云うのはさすがにないのではないだろうか。どの人にしたって多かれ少なかれ問題はあるだろうが、国民の審判が出た以上はつべこべ言わずに辞めるのが筋だろう。さもないと今度の衆院選が悲惨な結果になりかねない。衆院選ともなれば、国民の良識が働いて、民主党が圧勝するなんてことはさすがにないだろうが、自民党がこの調子でやって居るとそれも起こりかねないと云う危惧すら覚える。民主党は、年収1000万円以上の人には年金の基礎部分は支給しないなんて案を出して居るが、なんて馬鹿げた事を平気な顔して言い出すのだろうと驚いてしまう。金持ちから税金を多く取るのは合理的だと思うし、所得税や住民税の累進課税制については異存はない。だが、それを年金の支給にまで適用すると云うのは、ちょっとおかしくはないか。金持ちからもっと税金を取ろうとするのなら、所得税あたりから取るのが正しいあり方だと思うのだが。こんな政党が政権を取った日には、その先どんな改悪がなされるか気が知れたものでなく、まったく落ち着いて生活が出来なくなってしまう。となると、日本と云う国に対する世界の信用もがた落ちになってしまうわけで、経済的にも日本の衰退が一気に加速してしまうなんてことにもなりかねない。安部首相については「裸の王様」だとか「馬鹿社長」という言葉がまさに適切なようで、ここは他の自民党議員の英断に期待するしかないという現状だ。谷垣さんあたりが思い切った行動を取ってくれると面白いと思うのだが。あと個人的に興味を持って居るのは、田中康夫氏の新党日本と云う政党なのだが、選挙中、野党の中では一番まともな事を云って居るような気がした。残念ながら今回は田中氏一人しか当選しなかったが、この政党がもっと勢力を拡大していくと面白いことになるかもしれないと云う期待を少し持って居る。この先日本がどうなっていくのか不安は募る一方だが、自分に出来ることとしては、働ける内にしっかり働いておいて、資産運用も賢くやっていき、我が身の保身を図ることしかない。, 谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスXII 神と人との間』(中公文庫)を読了。結婚生活、結婚と云う問題を扱った作品3篇を収める。内二つは小品で、質的にもさほど見るべきものはない。残りの作品「神と人との間」は、谷崎、谷崎の最初の妻、佐藤春夫の間に実際に起こった三角関係を下敷きにして居る。佐藤春夫と云う著名な詩人・作家と自分との間に起こり、世間にも広く知られて居た三角関係を扱って居るからだろうか、谷崎にしてはやけにあっさりした作品である。作品と距離を置いて冷静に書くことがやはり難しかったのだろうか。あっさりして居るとは云え退屈だと云うわけではなく、さすがに読ませるものはある。特に最後の3頁はよかった。この3頁のためにそれまでの280頁があったのかと云いたいくらいに思った。, 谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスX 分身物語』(中公文庫)を読了。分身をモチーフとした短編3篇が収められている。いずれも面白く素晴らしい。谷崎の短編としても平均レベルかそれ以上の完成度を示しているように思う。またいつもの感想になってしまうのだが、谷崎は本当に巧い。文章も安定して堅実な冴えを見せている。谷崎という作家は、天才的な凄みは感じさせずに、さりげない顔をして名作を次々に紡ぎ出していくという印象がある。分身というモチーフを扱っているからには少なからず心理小説の様相を見せるわけだが、本短編集に所収の作品は、どちらかというとストーリーテリングの方に重点が置かれているような印象を受ける。その証拠に、読みながら「面白い!」「巧い!」と感嘆の声を心の内であげることがしばしばでありながら、アンダーラインを引いていずれ読み返そうと思う箇所はあまりない。とはいえ心理描写の方も決してお座なりなものに終わってはおらず、大衆作家にはない深みを常時保っている。, 河合隼雄『コンプレックス』(岩波新書)を読了。コンプレックスについて非常によくまとめられて書かれているのではないかと思う。1971年と一昔前の岩波新書なだけあって、学術的でありながら同時に一般向けであるという感じがする。必ずしも簡単に読めるわけではないがじっくり読めば一般の読者でもよく理解できるように書かれている。河合さんの場合学術書でも分かりやすく書かれているのだから、この仕上がりは岩波新書だからこそというわけでは全くないのだろうが、古き良き時代の新書が思い出された。新書と言えば一昔前までは、岩波新書、中公新書、講談社現代新書の御三家の時代で、岩波が一番堅く、講談社が一番易しく、中公はその中間というのが相場だったのではないかと思う。出版点数が少ない代わりに一冊一冊がきちんと作られており、とりあえずこれらの新書から出ていればタイトルを見てぺらぺらと捲ってみてすぐに購入という風に出来た。が、今や新書の種類が増えて質も低下し、新書の大衆化が瞬く間に進んでしまった。それに引きずられるようにして、岩波新書などの老舗の新書も大衆化してしまい、かつてのように岩波新書だから信頼して購入できるというわけには行かなくなってしまった。インターネットで書籍が購入できる時代になったとはいえ、実物を手に取らずに購入するなんてことはリスクが大きすぎて出来ない。書店で実際に本を手に取りぺらぺらと捲って何ページ分かを読んで、自分の目で質を確認してからでないと購入できなくなってしまった。それでいい本だと分かればよいが、駄目だこりゃとなった時には全くの時間の無駄である。出版社というものは、単に情報を提供するだけでなく、情報の取捨選択もきちんとやるべきものだと思うのだが、出版社はその機能を果たさなくなってきつつある。粗製濫造で、質の悪いものも構わずに市場に垂れ流しているという現状だ。これは日本の教養界にとって非常に嘆かわしい状況ではないだろうか。かといってこれは必ずしも出版業界の責任と言い切ることはできず、時代の流れというのも大きいのだろう。話は逸れてしまったが、本書は当分の間色褪せることのない、「コンプレックス」について書かれた「新書」の決定版だといえるだろう。, 先日、河合隼雄さんが亡くなった。報を聞いた時は少なからずショックを受け、きちんと手を合わせてご冥福のお祈りをした。普段手を合わせる事なんて全くないのに、こう云う時には自然と手を合わせてしまうものなのだなと改めて実感した。河合さんご逝去の報を受けてのネットでの書込みを色々と拝見して居ると、河合さんと云う方は本当に偉大な方だったんだなと改めて思った。入院が報じられた後の書込みもとても感動的だった。大勢の人が河合さんの事を心から心配し、無事のお祈りをし、激しく動揺されていた。それを読んで居るだけで、悲しくて涙が溢れてきたものだった。河合隼雄と云う人のどこが凄いのかと云うと、単に抜群の知性を誇って居ると云うだけでなく、それに深い人間愛が伴って居ると云う事が凄いのだ。明晰な頭脳だけでなく、人としての優しさ、温かさが並みの人間のものではない。河合さんが入院された時、政府から誰か高官がお見舞いに行ったが、小泉総理大臣は行かなかった。何で首相が行かないのか腹が立ったものだ。また、河合さんは文化勲章を貰っていない。文化勲章は死後受章も可能なようだが、おそらくないだろう。もしあれば、少しは日本政府を見直すだろうが、河合さんが貰って居ない文化勲章なんて大した価値は無い。ところで、河合さんの講演が三つほどビデオで公開されて居ます。多くの人が興味をもって見る事が出来る内容ですので、ご興味のある方は是非ご覧になってみて下さい。講演と云えば、朝日カルチャーセンターでのユング心理学の講義がカセットテープになって居るが、此れも素晴らしかった。早口なのに淀みがなく、しかも分かり易い。なんて頭の回転の早い人なのだろうと感動した。その頭の回転の速さは上のビデオでも確認する事が出来る。1時間以上休むことなく話し続けて、無駄話が全くない。冗談も多いが、平凡な講演者のように冗談の為の冗談ではなく、あくまでも話の円滑剤であり、限られた時間の中で伝えたい事を出来る限り効率的に巧く伝えようとする意思が感じられる。この人には本当に伝えたい事があって其れを真摯に伝えようとして居るから、話に魂が入って居る。可笑しいのは講演の終わり方で、そろそろ終わりが近づいてくると手元の資料の整理をし始める。そして、話が終わると同時に資料を抱えて「終わります」と一礼してそそくさと壇上を去られる。なんて無駄がないのだろうと感動した。河合さん、本当にお疲れさまでした。そして、有り難う御座いました。なんだか悲しくなって来たのでこれで終わります。, スコット・フィッツジェラルド『ラスト・タイクーン』を読了。作者の死により未完に終わった作者最後の長編小説。フィッツジェラルドは本作品を創作するにあたって創作プランを立てて居た。創作プランと遺された原稿とを比較すると、作品は予定されて居たプランの半分をようやく過ぎたばかりの所で終わって居る。フィッツジェラルドは最終的なワード数も予め見当をつけて居たのだが、遺された原稿のワード数はその予定ワード数を既に越えて居る。作者が早世しなければ本作品がどのようなものになって居たのかは想像する事しか出来ない。私の想像では、恐らく遺されたものとは随分様変わりしてしまったのではないかと思う。文章はやはりフィッツジェラルド風の文章であり、それなりに力を入れて書かれては居るが、読みにくい所が多く、まだまだこれから磨き上げるつもりだったのではないだろうか。また、メロドラマティックで平板な箇所が多いようにも感じた。つまり、本作品は予定の半分位までしか進んで居ないのみならず、原稿が遺されている部分も下書きの段階を過ぎていない。とは云え、やはり可能性を感じさせるものを持って居る。本作品は此れまでのフィッツジェラルド作品とは毛色が変わっており、またスケールも一回り大きくなって居るように感じる。もしフィッツジェラルドが本作品を完成させる事が出来ていれば、『グレート・ギャツビー』や『夜はやさし』を越える傑作になって居たかもしれない。そのような可能性をこの未完の作品が感じさせるのは、作者がフィッツジェラルドであるからに過ぎない。もしこれがフィッツジェラルドの作品でなければ、こんな中途半端な未完の作品が広く読まれる事なんてなかっただろう。この作品で面白いのは、作者の創作ノートが遺されていることだ。どの部分をどのように書き直すべきか、ここで読者にどのような効果を及ぼすべきか、ここを巧く書くためには自分は何をすればよいのか、などなど今後の指針を書いたメモが多く遺されている。これらを読む事によって、フィッツジェラルドと云う作家の創作方法を垣間見る事が出来る。本作品を読むと、フィッツジェラルドの才能がまだまだ枯れては居なかったこと、芸術家としての真摯さもいまだ健在だったと云う事がよく分かる。彼が亡くなったのはまだ44歳の時であったから、長生きしてさえ居ればあと2、3作品は人類の財産となる傑作を遺してくれたはずだ。, 谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスIII 自画像』(中公文庫)を読了。自伝的傾向を強く持った短編4篇が収められている。「神童」と「異端者の悲しみ」が素晴らしい。谷崎は短編も名作揃いだか、その中にあっても「異端者の悲しみ」はトップレベルの出来ではないかと思う。今回読んでいて感じたのは、谷崎と云う人は私と似ているなと云う事だった。私に経験がある思いやら感情やら考えやら思いつきやらが色々と書かれていた。これ等は恐らく私に限らず多くの人たちが経験している事なのではないかと思うのだが、他ではあまり読んだ記憶がない。そう云った事を巧みな文章で鮮やかに描き出す事の出来る谷崎と云う作家はやはり偉大だと云う他ない。上にタイトルを挙げた2篇に「The Affair of Two Watches」を加えた3篇は家族小説の趣を持っている。主人公たる息子の目から見た両親の描かれ方、並びに親に対する主人公のアンビバレントな思いが巧みに描かれて居て実に面白い。これ等作品の素晴らしさを説明する事は私の手には余るので、最後に二つだけ引用して終わります。「こうして親父もお袋も、ひたすら目前の無事を願いつつ、苦しく情けなく一生を終わろうとするようであった。夫は妻を制御する力がなく、妻は夫を激励する決心がなく、互いに現在の境遇から逃れ出る道を講じなかった。彼等は毎日己れの不運をかこちながら、猶且醜い生を続けて、奮発しようとも自殺しようともしなかった。」(「異端者の悲しみ」271頁)「彼等の眠りが深ければ深い程、章三郎は余計彼等が哀れであるように感ぜられた。終日の労働と心配とに疲れ果てて、敗残の余生を纔か夜間の熟睡に託して居る老夫婦の、静かな唇と眼瞼の裡には、昼間章三郎を叱り飛ばす時のような、瞋恚の瞳も輝かず罵詈の言葉も響かなかった。彼等はさながら、章三郎の足下に身を横えて、我が子の情けと救いとを求むるが如くであった。(中略)自分はなぜ、こんな悲しい人たちを邪慳にしたり、忌み嫌ったりするのであろう。こんな惨めな親たちに、なぜ反感を持つのであろう。・・・そう考えると、章三郎は胸が一杯になった」(「異端者の悲しみ」279-80頁), 参院選の投票日が近づいて居る。普段は選挙があっても特に関心はなく投票にも殆ど行かないのだが、今回は投票に行こうかと思い、新聞だけは熱心にチェックして居る。そもそも今回の選挙に関心を持つ切っ掛けとなったのは安部首相の不甲斐なさと云うか、首相として政治家としての自覚の無さに嫌気が差し、同時に自民党と云う政党にも不信感を覚えて、一丁自民党反対票でも投じてやるかと思ったからだ。さて、何処の政党に投票しようかと、民主党を始めとして、公明党、社民党、共産党から小政党まで一通り政策をチェックしてみたのだが、分かった事はどの政党もよい政策を持って居ないと云う事で、やっぱり自民党が一番無難かなと云う結論に落ち着きつつある。かと云って自民党に投票する積極的な理由もないわけで、今回も投票に行かないと云う事になるかもしれない。其れはそうと、投票に行かない人を非難する人があるが、其れは如何してなのだろう。私自身も投票に行かない事は悪い事だと何となく感じる事はあるが、さて何で悪いのかと考えてもよい解答を思いつかない。誰もよいと思う人が居ないのだったら誰にも投票しないと云うのが正しい理に適った在り方なのではないのだろうか。此れと思う人が誰も居ないのに中途半端に投票すると云うのは却って無責任な事だと思えるし、そもそも無理難題と云うものなのではないのか。例えば私が今回やりたいのは自民党の政治家達にもうちょっとしっかりせえよと言うことであって、其れをする為には何処かの野党に投票するのがよいわけだが、どの野党も自民党よりも酷いと云う事であれば、野党に投票しようと云う気が起こらない。例えば、自民党反対票を投じるのに民主党に投票することを以てすると云うのはどうもしっくりと来ないし、そんな事をすれば、民主党は自分たちが信任されて居るのだと勘違いするだろうから其れも癪だ。小沢民主党党首は、この選挙で野党が過半数を獲得出来なければ政治家を辞めると宣言したそうだが、其れなら今度も自民党に勝たせてやりたいと云う気がした。既に還暦を過ぎていて、此れまでに特に大した実績を残していないのだから、すでに引退していて当然なのではないのか。なのにそんな宣言で決意を示そうだなんてせこいやり方だ。何となく思うのだが、もう民主党も社民党も共産党も、みんな無くなってしまった方がよいのではないだろうか。自民党が駄目だからと云って、それで他の政党が良いと云う事にはならない。自民党が駄目だからと云うので他の政党に票が移って、やっぱり彼らはもっと駄目だったと分かってまた自民党に票が戻ると云うのでは何時まで経っても進歩がない。かと云って一大政党政治と云うのもあってはならない訳で、どうなればよいのかと考えると、自民党が分裂して細分化されて行くか、まともな新党が生まれて其れが勢力を拡大して行くか、民主党の無能な幹部達がみんな引退してよりまともな政治家が民主党を主導して行く事になるか、と云う辺りだろうか。いずれにしても今の調子で日本の政治が進んでいくと、今後の日本の社会主義化は避けられなさそうな気がする。そうならないように、40年、50年先を見通した政治をきちんとやって行って欲しいものだ。その為にも30代、40代の政治家がもっと増えてもよいのではないかと云う気がする。, ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(原卓也訳、新潮文庫)を読了。二十歳頃に一度読んで以来の再読。全体的にやはり面白かった。読みながらこれは青春の文学だなと思った。読んでいて青年時代の生気ある若々しい精神状態が蘇ってきた。神は存在するのかだとか、真理とは何かだとか、モラルだとかと云ったことに関して登場人物たちは真剣に考え悩んでいる。この生に対する真剣さ真摯さが、青春の文学だなと思わせるのだろう。村上春樹さんはドストエフスキーの「志の高さ」を指摘しているが、読みながらそれも感じた。この人は並みの一流作家達よりもずっと高いところを見ているのだと。立っている地平が並みの一流作家よりも二段くらい高いところにあるように感じる。ドストエフスキーは二段下の地平になどは興味がないのだ。登場人物たちには矛盾が多い。先の発言と正反対のことを平気で言う。行動も無茶苦茶だし、一般的な地平でいうリアリティは無い。しかし、ドストエフスキーはその地平で書いているのではない。二段高い地平で書いている。そんな矛盾をとやかく言うことはない。ドストエフスキー作品の面白さの多くはこの志の高さに起因するのだろう。志が高いが故に、他の作家が描いていないような人間を描くことに成功している。もちろん志が高いだけでそのような作品が書けるわけではなく、作家としての超一流の力量と相俟って為し得ることだ。どこがどう面白いのかを逐一説明しようとすると、作品以上の紙幅が必要になるだろうし、そもそも巧く説明することなんて不可能だろう。ドストエフスキーは文学という媒体によってしか成し遂げられないことをやったのだから、その凄さを知るのには作品を読むのが一番手っ取り早く、またそれが唯一の方法だ。何度も何度も読み返す価値のある作品だと思うし、毎回得るものは多いだろう。久々にドストエフスキーの作品群を読み返してみたい気持ちになった。原卓也氏の文章は素晴らしい。ロシア文学の邦訳は概して質がよい印象がある。翻訳者が素晴らしいのか、ロシア語と日本語との類似性の度合いが大きいからなのかは分からない。翻訳の文章に惚れ惚れとすることは滅多にないのだが、原氏の文章には惚れ惚れとした。本作品を原氏の翻訳で読み返すのにももちろん興味があるが、他の翻訳でも読んでみたい気がする。, 河合隼雄『縦糸横糸』(新潮文庫)を読了。産経新聞に連載されていたコラムを集めて一冊の本にしたもので、時事問題について論じることにより現在の日本の問題点を指摘し、今後の日本の進むべき道について多くの示唆を与えている。核燃料加工会社JCOにおける臨界事故、H2ロケットの打ち上げ失敗、新幹線のトンネル内のコンクリート落下など、巨大事故が相次いで発生したことを受けて河合氏は日本的組織における責任体制の問題点を指摘する。「高速増殖炉『もんじゅ』の事故以来、科学技術庁の関係で、国民をあざむくような失敗が続いているが、これらの事故の責任を問われて誰かが処罰された、というのを聞いたことがない。これは外国人から見れば、非常に奇妙なことに思えるだろう。日本的体制は明確な管理を嫌う。しかし、近代的な組織は、管理と責任を明らかにし、各人の役割を明確にすることによって支えられているはずである。契約によって仕事を規定し、それを遂行すればそれに見合う報酬が得られるが、それに反すれば罰がある。これは当然のことだが、日本ではそんなふうに行われていない。一応の管理制度はあるが、それは名目上のことで、罰を伴う厳格な管理は行われない」(198-99)この問題は現在もまったく解消されていない。先日、エキスポランドで死亡事故が発生した。この事故には私も相当にショックを受けた。まず、当然のことながら、ジェットコースターに乗って怪我をしたり死亡したりするなんて事はあってはならない事のはずだ。それが実際に起こったと云うことがまずショッキングだった。そして、そのコースターに乗り合わせた方々の恐怖を想いぞっと身震いをした。驚き呆れたのは、事故発生直後の記者会見でエキスポランドの社長だかが「子供の日にこんな事故を起こして申し訳ない」というような発言をしたらしいことだ。この「子供の日に」という修飾句は一体何なんだろう?こんな発言が出てくることからも、この社長だかの責任意識があまりに欠けていることは明らかだ。さらに驚かされたのは、事故後エキスポランドのHPに掲載された謝罪文には、「5月8日まで休園します。その後の営業につきましては改めてHPに掲載する予定です」みたいなことが書かれていたことだ。5月8日だったかどうかは正確に記憶していないが、当初の予定休園期間は三日かそこらだったように記憶している。どうしてたったの三日間なのか?また、この謝罪文からは、エキスポランドはこの事故をまさにアクシデント(不慮の出来事)とみなしており自分たちの過失で起こったのではないと言いたげな印象を受けたのだった。ここまで表現の便宜上「事故」という言葉を用いてきたが、その後の調査から明らかになったように、これは事故というよりもむしろ「事件」と呼ぶにふさわしい。私の見解では、エキスポランドの責任者は業務上過失致死傷罪に問われるべきだと思うのだが、そういう話は私の耳には伝わってきておらず、不思議に思っている。と書いたところで一応Googleで検索してみると、警察はちゃんとその容疑で調査を進めていることが分かった。議論の予定が狂ってしまったので話を年金記録問題に移そうと思うのだが、その前にエキスポ事件に関してまだ述べたいことがある。この事件の被害者の氏名や写真をマスコミは当たり前のように公表したわけだが、そのようなことは是非やめて欲しい。河合氏も本書の中で、神戸で発生した例の小学生殺害事件に関連して次のように述べている。「被害に遭った人は(中略)非常に気の毒である。その上、マスコミによってプライバシーまで破壊されるとなると、これはまったくたまらない。 この種の事件について、報道の在り方とか、被害者への接し方などについて、マスコミ各社が共同して倫理綱領をつくるぐらいのことを考えてはどうであろう。もちろん押しつけるのではなく、そのような綱領を守る新聞社と守らない新聞社ということで、読者が選択をするだろう」(71)河合氏の示唆にも関わらず、その後そのようなことは起こらず、事件や事故の被害者のマスコミによるプライバシーの破壊は相変わらず続いている。このインターネット時代にあっては、そのようなことは気休めに過ぎない訳だが、それでも決して意義のないことではないと思う。エキスポ事件の当時の現場状況についてのレポートがネット上に少なからず公開されているらしく、私もたまたまその一部を読んでしまい気分を悪くしてしまったのだが、そのようなことも是非自制して欲しいと思う。エキスポ事件については、警察には業務上過失致死傷罪容疑ということできちんと処置してもらいたい。それで、年金記録問題についてだが、これももちろん責任者には相応の罰が与えられるべきだ。杜撰な管理をしないということは当然社会保険庁の業務の必要不可欠な一環であり、それを怠ったからには業務不遂行として厳罰を与えられるべきである。最初の引用の中で河合氏が言うように、「遂行すればそれに見合う報酬が得られるが、それに反すれば罰がある」のが当然なわけだ。職務を遂行することに対して報酬が支払われるわけであるから、それを怠ったからには罰があって当然のことだろう。エキスポの社長もそうだが、社会保険庁長官にしても、高い給料を得ているのはそれに応じた重大な責任を果たすことに対する見返りであるわけだから、責任を果たさなかったからには重い罰を与えられて当然ではないだろうか。給料は高いわ罰は軽いわでは理屈が通らない。上のような日本社会の問題点を指摘した後、河合氏は次のような対応策を示唆する。ただし、以下の引用は科学技術集団内での無責任体質に対する対応策である。「これを防ぐためには、悪しき専門家身内集団を打ち破る方策を考えねばならない。これを遂行するためには、専門家以外の者が管理組織内に入って発言しなくてはならない。もちろん専門的なことは分からないが、身内による『なあなあ』の体制が少しは変わるだろう。そして、もっと多くの優秀な科学ジャーナリストを育て、マスコミを通じて的確な批判や改善のヒントを専門家や国民全体に与えることであろう。残念ながら、わが国ではこの領域の人材が少なすぎる。」(201-02)このことはもちろん科学技術集団についてのみでなく、その他様々な領域の集団についても言えることだ。こういったこともマスコミの職務の一環だと云えると思うのだが、このことに関してマスコミは職務遂行をまったく怠っているのではないだろうか。あるいは、自分たちの職務外とみなしているのだろう。だとすれば自覚が足りないと云うことになるわけで、これも罰の対象とされて然るべきだろう。職務不遂行・怠慢について罰を与える機関としては、例えばエキスポ事件についてであれば警察がそれに該当するだろうし、社会保険庁については政府がそれに該当するだろう。しかし、マスコミについてはどうなのか?一般国民にそれを求めるわけには行かないし、政府にそれを求めるのも当然間違っている。NHKのように商業主義に毒されない形で存立し得る報道機関の存在意義はこういったところにあるのだろうが、現在のNHKに存在意義があるのかと云えばかなり疑わしい。結局のところ、国民一人一人の見識に頼るしかないというのが根本のところなのだろう。そうとは云え、マスコミにしても政治家にしても、もうちょっとしっかりやってもらいたいものだ。話は飛ぶが、安部首相はやはり首相の器ではないと思うわけであり、かと云って自民党の次期総裁最有力候補である麻生氏に至ってはもっと怪しいわけで、そうとは云え民主党に政権を渡すことについてもまた更に深い危惧を抱くわけであり、一体どうすればいいのだと途方に暮れるわけだ。「途方に暮れる」と書いたものの元々今の政治家たちには全然期待していないのだから、あくまでも言葉の綾でそう書いたまでなのだが。それにしても年金問題を疎かに扱う政府は速やかに解散するべきであり、いい加減にしてもらいたい。年金制度をきちんと運用することは政治家の重要職務の一つである。それを怠ることに対しては当然罰を与えられるべきである。その罰とは一体何なのか?議員を辞めさせること? そうすれば、きちんと職務を遂行する政治家が次に当選するというのだろうか。給料を減額すること? それを決めるのは政治家当人達じゃないか。じゃあ、マスコミが批判をし是正を促せばよいのか? 今のマスコミを見給え。結局問題点は循環し堂々巡りをするわけであり、日本の無責任体質の根は相当に深く根付いたものだと云うことが分かる。このままだと、今にとんでもない「事故」という名の事件が起こるように思うのだが。, 村上龍『対談集 存在の耐えがたきサルサ』を読了。15の対談を所収しているが、その殆どが読み応えあるものだった。村上龍氏のことはそれほど買っているわけではないのだが、これを読んで少なからず氏のことを見直した。あくまでも見直しただけで、敬服するようになったということではなく、貴重な情報なり考えなりの供給源として有り難い存在なのかなと思うようになったという程度のことなのだけれど。本書を読んでいて気になった言葉の一つに「連中」という言葉がある。他の芸術家達であったり一般の人達であったりを連中呼ばわりする場面が多く出てくるのだが、こういう言葉を使う人達の言うことはどうも信用出来ないなと思ってしまう。彼らと私との間に語感差があるだけでそんなことはないのかもしれないのだが、この言葉には人を見下しているようなものを感じてしまうし、思考の対象を見下した時点で冷静でニュートラルな思考をすることが難しくなるように思うのだ。とはいえ本書には興味深い発言が多数あり、いずれ再読してみる価値は充分にある。, 綿矢りさ「インストール」を読んだ。『蹴りたい背中』の方はその文章力に感心したのだが、こちらの方はまだまだ未熟だなと感じた。「インストール」から『蹴りたい背中』までに3年くらいの間隔があるわけだが、この間に大分文章力が伸びている。作品としては、正直なところあまり見るべきものはないという印象。色々な箇所に破綻が見られるし、活きの良さも感じないし、中途半端さ、未熟さを色々な点で感じた。文庫本版の解説文は高橋源一郎氏が書いているのだが、「完璧」だとか「天才」だとかいう言葉を用いて、本作品および本著者を絶賛している。恐らくそんなに真剣に書いている訳ではないのだろうけれど、こんな解説文を書く人なのかと思うと高橋氏の作家としての能力をすら疑ってしまう。, ついでにもう一つマスメディア批判を。五年くらい前までは新聞がきちんとした文章を書いているのに感心していたのだが、最近は文章の質の低下も著しいように感じる。おそらく新聞記者がネット社会の悪文に日常的に触れる一方で良質の文章に触れることが少なくなったからなのではないだろうか。特に悪文・悪趣味化が目立つのはスポーツ欄だ。スポーツ欄の駄洒落趣味というのは今に始まったことではないが、最近は苦笑を誘うばかりで何の面白みもない駄洒落を平気で用いるようになってきている。また、例えば「ハンカチ王子」なんて言葉が典型的なものなのだが、そういったかつてならワイドショー番組だとかスポーツ紙だとかといった類のメディアのみが好んで使っていたような悪趣味な言葉を一般紙までが使うようになり、まるでマスメディア総ワイドショー化のような様相を呈している。マスメディアに国民の見本、模範を提示することを求めるのは筋違いなのかもしれないが、なにも国民の低俗化を助長するようなことをここまでの規模やらなくてもよいのではないかという気がする。もちろん大部分の国民はマスメディアほど愚かではなく、また馬鹿なマスメディアが馬鹿なことをやっていると思うくらいだろうが、マスメディアが国民の生活に占める割合は決して小さなものではないのだから、マスメディアにはもう少し意識的になって、大人になって欲しいと思うのだ。低俗テレビ番組に金を出している企業も番組制作側に一言文句をつけるなり、金を出すのをやめるなり考えてもよいと思うのだが、そういう考えをする企業はあるのだろうか。結局マスメディアも概ね営利集団であり損得勘定で動いている訳だから、良識ある国民は、悪いマスメディアには損をさせるというような動きをとることが望ましいのだろう。以前これに関連して面白く思ったのは、亀田三兄弟の長男が胡散臭い判定で世界王者になった時に、この試合を中継し、それまで異常なまでに亀田贔屓の報道を行ってきていた放送局に対して、視聴者側からもうこの放送局の番組を見るのはやめようと云うボイコットの声が挙がったことだ。その後、この放送局は、これは営業に響くと危ぶんだのか、自分たちの愚かさに少しは気づくようになったのか、亀田贔屓を和らげたようだ。こういう視聴者側の動きはもっと色々なことに拡大してよさそうな気がする。, 今朝の朝刊に、こんにゃくゼリーを喉に詰まらせて死亡した子供の親がこんにゃくゼリーの製造会社に対して損害賠償訴訟を起こしたという記事が載っており、それはないだろと違和感を覚えたのだったが、早速あるサイトで一般人の感想を読むと私と同意見の人が殆どで安心した。新聞は、亡くなった子供の親が訴訟を起こしたということと、製造会社がそれを受けて現在流通している商品の自主回収を決めたということを報じているだけなのだが、そもそも新聞は一体どういう目的でこのニュースを伝えようと決めたのだろうか。私が問題にしたいのは一般紙の報道姿勢なのだが、最近こういう、何も一般紙が伝えることもなかろうにというようなニュースを一般紙が伝えるという例に接することが多く、何とかならないものかと思っている。一般紙の品位の低下が近年顕著になってきているということだ。このことは私の家でとっている新聞にだけ云えることなのかもしれないので、こうして一般化して論じるのは間違っているのかもしれないのだが、勝手ながら一般化できるものと仮定して話を進める。今回の件で云うと、製造会社が商品の自主回収を決めたということは、こういった一般紙の報道姿勢の悪影響を示す一例だと云える。この製造会社の弱腰ぶりもどうなのかと思うが、断固とした態度を取りその結果消費者の心証を悪くすることのリスクを恐れての決断だろうから、営利企業としてはやむを得ない決断だと云えるだろう。マスメディアというものは少なからず世論を形成するという役割を、意図する意図せざるに関係なしに担っているという側面があり、マスメディアが愚かになれば国民も愚かになるという傾向が少なからずあるだろう。テレビという媒体にも望みたいことではあるがそれは余程難しいことであろうから、せめて一般紙にくらいは希望したいと思うのだが、もうちょっときちんとした判断力を国民に対して示してくれないものかと思うのだ。ここ数年つとに感じているのだが、マスメディアは弱者に阿って人の好さそうな顔をすることばかりに腐心して、まっとうな判断力を失っている。強者と弱者とどちらが正しいかなんていう判断はそっちのけにして、とりあえず強者を叩いて置けば国民の歓心を得られるだろうと云う打算しかないように見える。そうやって間違った判断や価値観をマスメディアが流布していると、自分で考えることをしないタイプの国民はそれをそのまま正しいことと思い込んでしまう。自分で考えることをしないということは別に取り立てて悪いことではないとも云えるわけだから、そういった人達に罪はない。が、マスメディアがそういう人達を誤った判断に導くということは、やはり批判されて然るべきことなのではないだろうか。この文脈において救いなのは、ネット社会において多くの人達が自分の意見を表明しており、それを他の人達が読むことをしているということだ。これによって、マスメディアの悪影響が幾分なりとも緩和されていると云えるだろう。(付け足し)こんにゃくゼリーの報道については、大して問題視することではなかったのかもしれないと今になって反省。子供や高齢者のことだから、自己責任の一言で片付けるわけにもいかないし。こんにゃくゼリーなんて別に無くったって大したことではないのだから、この際無くしてしまってもよいかもしれませんね。手の平を返すようですけれど。, 金井美恵子『目白雑録2』を読了。朝日新聞社の月刊PR誌「一冊の本」に連載のエッセイを書籍化したもののシリーズ第2巻。第1巻目は非常に刺激的で面白かったのだが、こちらの方は今ひとつかなと感じた。とはいえ、面白いには面白い。とにかく他人の悪口を好き放題書き散らしているといった風なエッセイ群で、金井美恵子と云う個性に触れる面白みがある。概ね肯うことの出来る悪口(彼女の場合は「批判」というよりは「悪口」なのだ)ではあるが、そこまで意地悪く言わなくてもよいのにと思うところも少なからずある。あと金井氏に特徴的なあの入れ子式構造多用の文体がこのエッセイ集にも見られるのだが、やはり些か読みにくい。もっと読みやすく書こうと思えば書けそうな気がするのだが、分かりやすく書けば意味ニュアンスが違ってしまうということなのだろうか。しかし、二三度読み返しても何を言おうとしているのか分からない箇所も何箇所かはあり、それはやはり問題なのではないだろうか。まあこの文体あっての金井さんということも言えそうだし、悪文と言えなくもない文体を堂々と駆使し、「私ほど文章が巧い人はいない」みたいなことを自信たっぷりに言い切る作家が居るということは全然悪いことではない。ただ、本書に関しては、文章について、ちょっと手抜きしているのかなと思うところがあった。, 谷崎潤一郎『人魚の嘆き・魔術師』(中公文庫)を読了。表題の二作品を収めている。「耽美派・悪魔主義」という言葉に表されるような作品。観念的でまだるこしくて時代遅れの憾がある。少なくとも私が興味を持って読むようなタイプの作品ではなかった。, 谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスV 少年の王国』(中公文庫)を読了。少年物の短編5編を集めたもの。いずれも少年を主要登場人物とした物語でありながら、それぞれに趣が異なる。「母を恋ふる記」は分かり難い情景描写が多く読みづらかったが、その他の作品はいずれも読みやすくまたそれぞれに面白みがあった。中でも「二人の稚児」が秀逸だ。この作品は確か高校の現代文の教科書に載っていた覚えがある。二人の稚児とはここでは「寺院に召し使われた少年」くらいの意で、比叡山に預けられており、成人すると出家することになっている。千手丸は15歳、瑠璃光丸は13歳。そんな二人の性の目覚めを扱った作品。比叡は女人禁制の山であり、二人は女というものを見たことがない。二人とも物心つく前に山に預けられたため、母の記憶すら残っていない。そんな彼等が持つ女のイメージとは教文から得た「浮世に住んで居る人間の一種で、総べての禍の源とされている女人という生物」(79)だとか、「悪魔」だとか「獰悪な動物」(80)だとか云ったものだ。智度論に「執剣向敵猶可勝、女賊害人難可禁(剣を執りて敵に向かうは猶お勝つ可し、女賊人を害なうは禁ずべきこと難し)」なる文句があり、宝積経には「一とたび女人を見れば、能く眼の功徳を失う。縦(たと)い大蛇を見るといえども、女人をば見るべからず」なる文句があり、唯識論には「女人地獄使、永断佛種子、外面似菩薩、内心如夜叉」とあるという。中でも面白いと思ったのは、初めの智度論の文句で、剣と女とが対比されていることだ。これは映画『サムソンとデリラ』でも描かれていることだが、女の性的魅力というものが男の腕力に比することが出来るということは真実である。フロイトも転移を論じた論文の中でそのような趣旨のことを述べている。要するに女が性的魅力を発散するということは男が腕力を誇示することと似ており、本来ならば規制の対象となって然るべきものだ。しかし今の日本ではそういう風にはなっておらず、慎みのないファッションが白昼堂々とまかり通っている。もちろんこの問題は女がだらしなくなったという単純な話ではなく、問題はもっと根深いところにあるのだろう。, 谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスII マゾヒズム小説集』(中公文庫)を読了。マゾヒズム系の短編5編を集めたもの。いずれも甲乙つけ難い好編揃いだが、とりわけ「赤い屋根」が面白かった。感想を書くような事は思いつかないので止めにして、関係のない話を。昨日、脱北者が青森県で保護されたが、これは報道する必要はあったのだろうか。今朝の朝刊にも指摘されていたが、これは北朝鮮に外交カードとして利用される恐れがある。もちろん、こんなことを外交カードとして使うなんて馬鹿げたことであり恥ずかしいことなのだが、相手が相手なだけにやる可能性は充分にある。だとすれば、この出来事が北朝鮮側に知られることは国益を大いに損なうわけで、上のような疑問を覚えたのだった。それはそれとして、もう一つマスコミの報道姿勢について疑問に思うのは、事故や事件の犠牲者のプライバシーをまったく無視していることだ。事故や事件(殺人事件など)の被害者の氏名や写真などを当然の如く公表しているが、そんなことは必要なのだろうか。少なくとも私がそのような事故や事件の被害者になった場合公表なんてされたくない。自分が被害に遭ったことを全国の人々に知られて嬉しいと思う人なんてそうそう居ないように思うのだが違うだろうか。そのあたりのことを充分に考慮した上で、彼らは報道しているのだろうか。書くと云うことは、書かないと云うことを含めて書くと云うことなのだから、何でも彼でも書けばよいと云うものではない。マスコミの仕事は文筆家の仕事とは違って同じ出来事を大勢が一斉に報道するわけだから、一人の記者がセンスを働かせて書くのを控えたところで、センスのない記者が書いてしまえばそれで終わってしまう。だからこれはマスコミ全体が一致協力して考えなければならないことなわけだが、それは不可能であることは容易に想像できる。村上龍氏が「龍言飛語」というのをやっているが、これはなかなか面白い取り組みだと思う。言っていることもまともなものが多いし聞いていてなかなか面白い。, 谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスVII 怪奇幻想倶楽部』(中公文庫)を読了。怪奇幻想系の短編5編を集めたもの。発表年は大正5年から大正8年にかけて(つまり、作者30歳から33歳くらいにかけて)であるから、最初期の作品になる。何と云っても文章が巧く惚れ惚れとしてしまう。殊に心動かされたのは漢字の使い方だ。今ではあまり用いられなくなった漢字遣い「云う」「此の」「居る」「其れ」「其処」「何処」「如何」「或る」などがズバリズバリと決まって居た。数年前から、新聞では意識的に漢字を用いないようになって来て居るが、如何してなのか理解に苦しむ。こんな簡単な漢字なのに如何して平仮名にしなければならないのか解らないような例も少なくない。平仮名にすることによって却って読み難くなって居る場合も少なくない。一体如何してなのか。作品としてはどれも面白かったが、中でも「白晝鬼語」が頭一つ抜けているように感じた。とは云え、やはり初期の作品なだけあって面白さが皮相のレベルに留まっているように感じた。本物の作家が生み出すような深み凄みは感じられなかった。ストーリーテリングのためのストーリーテリングという印象だった。読みながら想ったのはエドガー・アラン・ポーやアンブローズ・ビアスの短編の事だった。彼らの優れた作品と本書所収の作品とを比べると、其の質において一歩も二歩も相手に譲るように感じた。とは云え文章とストーリーテリングは素晴らしく、広い意味での第一級の作品であることには違いはない。殊更に読み返す程のものではないにしても。, 河合隼雄『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日文庫)を読了。ナバホ族とはネイティブ・アメリカンの一種族なのだが、彼らはアメリカの中に一つの独立国家のようなものを作っているらしい。アメリカ政府からも自治権のようなものを認められているらしく、また確か国連に代表を送りすらしているとのことだ。ナバホもまた、他のネイティブ・アメリカンの種族と同様、かつて白人に迫害された歴史を持っており、白人に対する恨みのようなものはいまだに多くのナバホの人たちが抱いているようだ。ナバホの文化は白人の文化とは大きく異なる。そんな彼らがアメリカというある意味最先端の白人国家の中で暮らしている。そしてもちろん現在の白人文化から少なからぬ影響を受けており、ナバホの文化は少なからず廃れつつあるようだ。現在白人たちは自分たちの文化がそろそろ限界に近づいてきているということを悟りつつあり、彼らの中で、ネイティブ・アメリカンの文化に目を向ける動きが顕著に出てきているらしい。河合氏もまた白人文化の限界を感じており、さてどうするかということで、ナバホの文化に興味持ったのだろう。また、白人文化の圧倒的な影響力を受けて様々な問題が生じてきている日本をナバホになぞらえて考えてみようという思いもあるのだろう。本書は河合氏の著作の中で比較すると質の低い部類に属することになるだろう。確か本書の始めの方で河合氏自身も述べているように、ナバホについての著者の考えがまだ発展途上であり煮詰められていない段階だからだろう。そうとはいえやはり、考えさせられる内容が少なからずあった。ナバホの文化の特徴の一つとして、人々と大地との結びつきが強いということが挙げられる。あるナバホの人は、「キリスト教の人たちはパートタイム宗教をやっているにすぎない」と言ったそうであるが、ナバホでは生活と宗教とが渾然一体となっている。だから彼らの言語体系の中には「宗教」に相当する言葉がないらしい。宗教というと、教会だとか寺社だとか僧だとか、人工的なものであるというイメージを持ちがちであるが、広義の宗教は必ずしも人工的なものではない。大地だとか山だとか木だとか風だとか、そういった自然のものにも霊的な力があるのだとするアニミズム的な考え方は改めて見直してみる価値があると感じた。本書の中では最後の40ページ分くらいが内容が濃い。河合氏は、日本の文化が白人の文化の下層に沈んでいくことを危惧されているようであり、現にそういった徴候は至る所にみられるわけであるが、これに関連してハッとさせられる文章があった。「しかし、『法律』の恐ろしさについて、あるアメリカ先住民が言った次の言葉は印象的である。『白人は法律によって罰せられない限り、自分を正しいと思っている』。つまり、法律の網の目をうまく逃げ抜けることのできた人間は、『正しい』人間として力を持つのだ。その正しさによって、アメリカ先住民は実に多くのものを奪われてしまった」(219)これは考えてみれば当たり前のことなのだけれども、最近どうもこのことを忘れかけていたような気がする。これは日本の社会全体がそういう傾向になってきているということもあるだろう。法律が細かく整備されて多くの悪い行いが法律的に刑罰の対象とされるということはあながち悪いことではないし、推奨されることですらあるかもしれない。だが、そうして法律の網の目が細かくなっていくにつれ、その網の目に引っ掛からない行いは悪いことではないのだとつい考えてしまうということになる。しかしそうではないのだ、法律に規定されていようとされてなかろうと悪い事は悪い事なのだということはよくよく心得ておかなければならないと改めて考えた。, 谷崎潤一郎『幼少時代』(岩波文庫)を読了。まず感心したのは谷崎は本当に文章が巧いなということだった。書かれている内容はそれほど大したものではなく、どちらかというと退屈なものだといってもいいくらいなのだが、なんといっても文章が優れているから嫌気が差して止してしまうなんてことにはなかなかならない。谷崎の幼少時代はさほど波瀾に富んでいたというわけではないようだ。谷崎に起こった出来事として特別の興味を掻き立てられるようなものは特に書かれていなかったように思う。本書の良いところは谷崎の自伝としての役割よりもむしろ、谷崎幼少の頃の東京の風情が鮮やかに描かれているという点にある。というのはさすがに言い過ぎだろうが、本書にある東京の描写は興味がそそられるものだった。東京の変化については谷崎も随分慨嘆していたようであるが、本書を読むと東京が如何に変わってしまったかということが非常によく分かる。もちろん本書が当時の東京のあらゆる様相をカバーしているというわけでは全くなく極めて局地的な描写があるに過ぎないわけだが、「当時の東京ではこういう人が暮らしていたのだな」だとか「こんなこともあったんだ」と感じられるだけで、なかなか感慨深いものがあった。, 夏目漱石『私の個人主義』(講談社学術文庫)を読了。高校の時以来の再読。漱石の講演5篇を収めたもの。少し前から、未読の本を読むよりも以前に読んで印象に残っている本を読み返すことにもっと読書の時間を振り向けようと考えるようになったのだが、そればかりやっていると読書行為から得られる新鮮味が随分と薄れるものだなと実感している。随分前に読んで内容もほとんど覚えていないようなものであっても、その読書から得たものは、自分の内の知らないところで相当に残っているようだ。本書の中で優れているのは「現代日本の開化」と「私の個人主義」だ。とりわけ「私の個人主義」は白眉だと言える。他の講演には特に見るべきものはない。「現代日本の開化」では、日本における文明の進歩について語られる。昔の文明の進歩は生きるか死ぬかのことに関するものであったのだが、今ではそれが「生きるか生きるか」のものになってしまっていると漱石は言う。つまり、現在の人々は、「Aの状態で生きるかBの状態で生きるかの問題に腐心し」(52)ている。さらに漱石は、「既に開化というものがいかに進歩しても、案外その開化の賜として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである」と述べ、「私の結論はそれだけに過ぎない。ああなさいとか、こうしなければならぬとかいうのではない。どうすることも出来ない。実に困ったと嘆息するだけで極めて悲観的の結論であります」(64)と結論づける。この問題は日本を始めとする先進国が今なお直面している問題である。そればかりでなく、インドや中国を始めとしたかつての発展途上国へと拡大しようとしているという現況だ。この状況が続けば地球環境がますます危ぶまれるわけで、これはいまや地球規模の問題となっていると言える。だからどうしようということもないのだが、何十年後かには世界各国の代表者たちが集まって、今の自由経済をストップさせようということになりはしないだろうかと考えている。お金がいくらあろうが生活がどれだけ便利になろうが、地球環境が崩れてしまったり食糧が足りなくなってしまったりしては元も子もない。このことをよくよく考えもしないで無計画に闇雲に自由経済活動を推し進めていくというのは、あまりに思慮がないものだし愚かで馬鹿げたことのように思える。という私自身も自由経済活動の一翼を担っているわけであり、今の社会の職業ポストの多くはそういった類のものである。結局のところ個人としては、漱石と同じく「実に困ったと嘆息する」ことしかできないのかもしれない。いくら頑張って働いてお金をたくさん蓄えたところで、食糧難になり異常なまでのインフレが起こりでもすればこれまでになしてきた労働努力がほとんど無駄になってしまうわけだし、地球環境破壊によっても同じような目に会うことになる。世界各国の政治家や指導者たちがこれからどのような舵取りを行っていくかということはとても重大なことだ。また、お金なんてただの紙切れだと言ってもいいくらいにその価値はあやふやなものであるということはよく覚えておいた方がよさそうだ。「私の個人主義」の中では、漱石は自分の人生について率直なまでに語っている。まずこれがとても印象的だった。漱石の言う「個人主義」の考えは至極尤もなものであり、これが正しい姿勢だということは見識のある人であれば誰も否定することが出来ないのではないかと思う。それはそれとして、今回特に感銘を受けたのは漱石の人生論の部分だった。この講演は学習院の学生に向けられたもので、若い人に対して生き方のアドバイスを与えるという側面を持っている。漱石のアドバイスの要諦は「ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出されるとき、あなたがたは始めて心を安んずる事が出来るのでしょう」(139)ということだ。「もしどこかにこだわりがあるのなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。---もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。」(139-40)こういう文章を読んでいると漱石の優しさが伝わってきてなかなか感動的だった。ちなみに上の二編は青空文庫で全文読むことができます。, J.R.R.

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